昭和46年08月05日朝の御理解
御理解 第88節
「昔から、親が鏡を持たせて嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」
家を治める、これは嫁入りの時に、親が鏡を持たせてやるという、その例から、確かに顔をきれいにするばかりではない。辛い悲しい思いをする時に鏡を立てて、ああこげん悲しい顔をしとっては、こういう腹を立てた顔をしておっては、と言う様に改まっていく事の為に、鏡を持たすんだと。ですねですからこれは必ずしも、女とか嫁入り前の、嫁入りする人の為にと言う事ではない。
やはり信心は家庭に不和のなきが基と仰る。その不和のない、円満な家庭を築かして頂くと言う事がおかげの基、私はこの八十八節を頂く時にはいつも思うのですけども、ここんところが頂けたら、もういよいよおかげにおかげの花が咲いて行く様に、繁昌のおかげを頂いていく事だと思います。お互いどうぞひとつ繁昌のおかげを頂かんならんのですから、もう本当に家の中が治まってない家は、繁昌する筈はありませんです。
繁昌しよるようにあっても、それはどこからか、又結界するというかね、又崩れるです。本当に家庭の中に、円満なおかげを頂く為に、まず銘々の心というものが治められなければいけません。そこであちらはなかなか治まった方だと、落ちつきのあるいわば腹のしっかりした人で、まあべちゃくちゃ話もせん物もいわん、じっと自分の心の中に黙って辛抱しとると言う様な、まぁ言うならばあまり性根がよくないんと言う様な場合も、治まとると言う事を申します。
あっちは仲々治まっちとるからと、却ってあちらは腹がよいから、ぽんぽん言ったり、態度に出したりすると言った様なふうに申しますが、だがここで言う治めよというのは、鏡を見てというのです。鏡を見てと、まあこれをいうならば、教えをひもといてという、日頃頂いておる教えを頂いてと言う事なのなのです。ですからこれ、普通でいう、腹がしっかりしちゃるとか、治まっちゃるというのとは違う。
いわゆる鏡を立てて教えをひもといて、その事柄その問題をよく見るところから、いうなら自然に心が治まってくる。治まるだけではない、これは御礼を申し上げねばならない様な事に、こういう悲しい顔をしたり、辛い思いをしたりする事がかえって神様に、お礼申し上げねばならないという様な事までわかってくる。いわゆる心がそのように豊かになってくる。進展してくるわけであります。そういうところをです、私はね只、腹がしっかりしとると言う様な事ではなくて、信心によって辛抱させて貰う。
信心辛抱である。いわゆる金光様金光様で辛抱する。そういう私は生き方で物事を見聞きする、信心の稽古といわれます。その事を通して本気で信心の稽古をする。しっかり信心の稽古をし、又はしたいと思いながら実際問題の上に、稽古の材料を与えられると、他の事なら辛抱するけど、この事だけは辛抱出来んと言う様な事になってしまう。それでは辛抱いや信心の稽古を本気でしようという者の姿勢じゃない訳ですね。
その事を通して信心の稽古をさせて頂きますと言う事になる時にです、私は辛い事でも、いわば悲しい事でも、辛い悲しい、いわば顔を人に見せんですむおかげを受けられる。家を治めよと。それは自分の心がまず、治まる事である。そういう体験が、段々積まれていくところから、結果がどういう結果に生まれるかというと、本当にいわんですんでよかったとか、態度に出さんで良かったとか、そういう後の有難い心が、いつの間にか段々自然に備わってくる。それが段々いわば心が豊かに大きうなっていく。
これは例えば、言わんですむおかげなんと言う様な事でも、本当におかげを頂いて、だんだん言わんで済む様になったけれども、稽古しよると今度は、いよいよこの事だけは一つ、いうとかにゃと言った様な事に直面する。稽古させて下さるですね。だから自然にいわば、心が豊かに大きうなってくる。成程いうなら八十八節です。八に八をいうなら広がっていく。いわゆるおかげに、おかげの花が咲いていくと言う様な、おかげの方もそうなってくるだろう。
私共どうでもここんところのおかげをひとつ頂いて、自分の心を治める、治まったその心で、これは自ずと家は治まっていくと思います。先ず自分の心が治まらんのに、私が黙っとけばよいか、私が心の中でぐっと言わんで辛抱しとけば良いからと、言うだけではいけません。自分の心が治まっていかねばならん。燃もそれが自然に、治めるという字はさんずい偏にム口と書いてある。自然いわゆるさんずいとは、自然と言う事でしょうが。いつの間にかいわんで済む私になっおる。そういう私しは信心が身についたら、いよいよ家は治まる。いわばいよいよおかげの、受けものが出来ると言う訳です。
御理解二十九節に、桜の花の信心より梅の花の信心をせよとありますね。いわゆる桜の花のように、ぱっと咲いてぱっと散ってしまう。言う事だけはというたら後はすきっとする。成程それで自分はすきっとするだろうし、又周囲もですあの人は、あぁ言う様な人だから、桜の花のような人だからというて、認めてくれるかも知れませんけれども、家を治めると言う事にはならんのです。全然治まってないから。
自分の心が治まってないから、ぱっと言うたりしたりしなければなりません。やはり梅の花の信心でなからなければならんと言う事。辛抱させて頂いとる内にいわば、信心の香りも出来る。信心辛抱の徳も身につけて行く事が出来る。その苦労が修行が長ければ長い程おかげの受けものはいよいよ大きくなっていく。そこで私共がそういう自分の心を治めて行く事の為にです、自分の心をいよいよ豊かにしていく事の為に、そこにどんな場合でも、教えの鏡を立掛けさせて頂けれる余裕。ゆとりを頂く事の為にです。
私はいつも大地にひれふしたような心の状態。今日も信心の稽古をさせて頂きますという姿勢をとっとかにゃいけんと思う。燃も頭を地に摺りつけるような思いでおらなければいけません。そういう姿勢を作っとかんと受けそこないます。今日はどういう事柄で信心の稽古をさせて頂くだろうかと言う様なです、いわゆる頂き方になります。私は本当にここのところをおかげを頂かないとです。
信心頂く値打ちはないとさえ思います。向こうが向こうだから、此方は此方と言う様な行き方あったり。どういう悲しいとか辛いとか言った様な事でもです、それこそ悲しみよこんにちわである。悲しい事にでも挨拶がいえれるような心の状態。そういうゆとり、それは私共が地にひれふしたような心の状態をもって、今日も本気で信心の稽古をさせて頂こうという。姿勢を作っとかなければならんのです。
そしてここが一つ一つ出来ていくおかげを頂かなければです、信心が出来ていきよるとはいえんのです。一生懸命参りよる。一生懸命御祈念をするというだけでは、これは何でも一つ事をなす前に、まあ娘さんならば嫁入り前のことでしょう、商売をする者ならば今から商売を今から開店しようとする人達、例えば、ここの先生方は場合なんかは、まぁ早晩布教に出なければならんでしょう。
その布教に出るまでに、これだけは身に付けておきたいという願いを持たなければなりません。でなかったら商売繁昌しません。そうでなかったら布教に出ても人は助かりません。そうでなかったならば嫁入っても、向こうの家に行って、向こうの家を治めると言った様なおかげにはなって参りません。だから本当に信心の基本ともなるところです。そういう受け方、今日も本気で信心の稽古をさせて頂こうという姿勢でおらなければいかん。燃もそれが段々一言、二言と日々稽古させて頂きよるうちにです。
それが有難いものになってくる。それが自然に出来てくるようになってくる。そこから体験も生まれてくる。いよいよ有難い事になってくる。成程家を修めると言う事は、私共が自然にム口、いわゆる言わんで済む態度にとらんで済む、おかげを頂く事、そういう生き方でいくならばです、必ず心も治まる。家も治まる。家が治まればおかげも受けられる。それがいよいよ大きうなっていけばいく程。おかげにおかげの華が咲く程しのですね、おかげが受けられる。
これは如何にも私がこうやって申しておりますと、私が何も出来とる様にありますけどねそれは皆さんがね、悲しい思いをしたり、苦しい思いをしたりする様な事には、悲しい顔やら、苦しい顔やら見せんで良かろうと思うんです。ところがもう私の所にはですね、やっぱり皆さんと同じ様な問題が、やっぱりあると言う事、もっと大きなもっと深刻なと言う事でしょうかね。ですからそれを頂く上にはやっぱり、私もいよいよそういう姿勢をとっとかねば、やりそこなう。
私自身にとっても、それが内容が大きくなれば大きくなる程、いわゆる八の字である八には末広に末広のおかげを頂いて行く事が分っておるから、どういう問題に直面しても、そういう問題を通して、信心の稽古をさせて頂こうと言う事になるのです。だから恐らく一生あるでしょう。ですから基本になる所だけをです。お互いが本気で頂かせて頂いておったら、その基本の姿勢にいわば、立脚してから信心が段々育っていく。
信心が育つと言う事は、私はどのような場合であってもです、それを辛い悲しい顔をせんですむような、おかげを頂いていく事の為に、いわゆる信心の稽古をしておくと言う事になるのじゃないでしょうか。今日もどうぞ信心の稽古をさして下さい。段々信心の稽古が出来て参りますと、その例えば問題もやはり大きくなりましょう。けれども大きい問題であるという事はです、もう次には大きなおかげが受けられるという前提でもあるのですから、心秘かに楽しい事になってくる。
いやこの問題を有難く受けられたら後はどんなおかげを受けられるじゃろうかというような楽しみすら出来てくるはずです。鏡をもっておっても鏡を只自分の都合の良か時だけ鏡を見る、いわゆる、綺麗にする時だけ見る。教えというものは、自分の良い様に、教えを自分のよいように引用する。これではなくて、顔を綺麗にするばかりの鏡ではない。教えというものは、自分の都合の良いようにしていくものでも、そういう都合の良い時だけ、教えがあるのでもありません。
自分がいよいよ分の悪い、都合の悪いから又は悲しい、辛い思いの時にこそ教えが引用される。教えを立てて、自分の心の状態を改めていく、自分が改められていくところから、おかげを受けなければいけません。私は今日ある、ある商売をなさっておられて、急に今窮屈なところを通っておられる人のことを、御祈念させて貰いよりましたら、あの何というですかね、大きな太牢府さん辺りに、茶店がありましょうが、あの戸が閉めてない、四方から入られる様な。
大きな茶店ふうのものがあって、その前が道になっている所を、それこそ水天宮さんが三夜さんのように、ひしめきあしって通っているですね。所がそこの中はがらんとしてその誰も、お客さん一人入っていない訳です。ところが向こうに、お茶やらうどん屋さんでいうなら、うどんの釜をいれましょうかホケも立ちよらん、湯気もあがりよらん。只大きな家がこうやってあって、座布団どもこうやって並べてあるというだけである。もうそれこそ前の方をですね、もういうならば、ここが食堂であるとするならば。
ひもじい思いをしておる人達が、食堂はなかじゃろうかというていうならひしめきあうて前を通りょうにある。それをこちらがやる気がないから、そこへ誰も入らん。ですから私共が本気でですね、例えば沢山のお客さんに寄ってもらいたいなら、中にね本気にそういう例えば食堂であるならば、食べるものがいっばい並べてあるとか、釜から湯気があがっとるとか、茶出しはシャンシャンたぎっとるとか言った様なものがなからなければです、お客さんが入ってくるはずがありません。
家の中は火の消えたごとある、なら表には買いたい人、食べたい人がいっぱいひしめきあうて通っておる。まあこれを教会にたとえても良いです。世の中には難儀な人がいっぱい、それこそひしめきあうように、世の中に難儀な人が多いのです。人が助かるという教会があるのに、その教会が閑散としておると言う事は、やはりこれは中に助けようとする働きも力も生き生きとしたものがない証拠であります。
前の通りを、難儀な人がいっぱい通っておる。自分を助けて下さる人があるならばと、それこそ助けてもらうところはないじゃろかと、思うておる人がいっぱいあるだろうけれども、ここは助ける場である教会でありながら、教会のなかに助ける働きというものが、ないとするならば、誰も入ってはきません。これはお店だってそうです。お店が閑散としている。この頃は閑だというならです。
例えば今日の御理解からいうと、本当に私共が治める心と申しますか、自分の心をどのような場合であっても、それを信心で受けて、稽古の材料にさせて頂く。今日も信心の稽古をさせて下さいというような姿勢。そういう基本というものがないから、私はおかげにならんと思う。たぁだ表を通りよるお客さんばぁかり眺めてから入って貰えんじゃろうかと言う様ね客引き的な事をしたって駄目である。
問題はこちら自身の心の上に、心が治まる、家を治めていくと言う事を先決にして、そこんところを自分のものに身に付けていくおかげ。そこからいわば、八の字のおかげが受けられる。それが段々重なって大きくなっていくなら、その心が豊かに大きくなってくならおかげも又、それに伴て、おかげが頂ける道理である。これは嫁入り前の、今から嫁入ろうする娘に対しての御理解だろうと思いますがね、例えばいわば娘の間に、商売するならば、商売を始める前に、布教に出るならば布教に出る前の修行中に。
私しはそういう基本というものがしっかり、繰り返し、繰り返しその事を通してその事をもって。信心の稽古をさせて頂くという、一つの思い込みというか姿勢をしっかり、出来る所からでなければ、嫁入っても相手の家に、家を治める事も出来ないであろう。商売をはじめても、商売が繁昌する事もなかろう、布教に出ても教会が発展し、御ヒレイを頂くという事は出来ないと私は思う。信心の本当に大きなおかげを頂いていく為の一つの基本基礎であります、八十八節はそのように頂かにゃいけんと思うですね。
どうぞ。